2023年の夏、初期の膀胱がんと診断された52才男性の方にお話を聞かせて頂きました。

一つ下の奥様と大学生の娘の3人家族。子供たちにサッカーの指導をしながら、家業を継がれました。

常に新しいコトに臆せずトライする『チャレンジ精神』を大切に、仕事に取り組まれているKさん。困難なコトにぶちあたっても前向きに何でも取り組みをされる反面、ストレスをため込んでしまう事も。そんな時期が続いていた40代後半の頃から頻尿に悩まされていました。年齢のせいかと笑い話にしながら特に気にはされていませんでした。

20代の頃に髄膜炎で入院をされたこともあり、30半ばからは、毎年欠かさず健康診断を受けていました。

2022年、健康診断の血液検査で【PSAの数値が少し高め】と指摘があり、病院で診てもらうと、医師からは「暫く様子を見る」という診断でした。その後、三カ月ごとの定期健診で数値が少しずつ悪化。結果、大きな病院で診てもらう事になりました。

当初、「前立腺がんの疑い」で検査をされたそうですが、検査の結果、医師から「初期の膀胱がん」と診断されました。タバコも吸わないし、お酒も飲まないKさん。突然の医師からの告知に「こんなに急に告知されるんだ!!」「まさか自分が」と、驚いたそうです。

その後、奥様が常に一緒に病院に付き添ってくれるなど、奥様の助けもありKさんは、安心して治療に挑めたそうです。

2023年5月、膀胱がんと告知され7月に一度目の手術、8月に二度目の手術をされました。初期だったこともあり、その後は三カ月に一度の経過観察で現在に至ります。手術の後は、一時間毎にトイレに行きたくなる為、睡眠不足になりましたが、眠剤等は服用せず、ご両親からの勧めでヤクルト1000を飲み始めたそうです。その効果かわかりませんが、今では3時間は眠れるようになったそうです。今後も三カ月ごとの検診が続きます。がんと診断されてから「死」が自分にとって身近なモノになったそうです。大学生の娘の将来や、仕事の事『まだまだやりたことがいっぱいあるから死ねない』と、これからいろんな事にチャレンジをしていくKさんの一番好きな言葉は、「Pass should be future,not the past,not the present」[パスは未来へ出すものだ。過去でも、現在でもなく]との事です。自分の未来に『いいパス』をだせるよう私も頑張っていきたいと感じました。ありがとうございます。

52才男性

「おまけの人生、人の為に生きよう」と決めて・・14年

52才の春、トイレが急に近くなり、食べているにもかかわらず体重が減り、2~3カ月後には急にお腹が膨れてきたNさん。

「コレはおかしい!!」と、病院で検査の結果【卵巣がん】と診断されました。

Nさんは、父親をがんで亡くしていた事もあり、がんという病気を身近に感じていたせいか、体調が悪くなっても『怖くて・・』なかなか病院へ行く事ができなかったそうです。

家族に促され病院へ、そしてがんと診断。

当時の心境は、「ショックだったけど、泣かなかった」と、「自分のことより母親のことが心配で、母親を置いて死ねない」と、思ったそうです。とてもご家族を大切に思われているNさん。母親と弟の想いを知り、「できる事は何でもしよう」と「やらなかった事で後悔したくない」「やらなかった事で家族に後悔をさせたくない」と、辛い抗がん剤治療にも耐え、更に、がんの免疫療法「蓮見ワクチン」を5年間受けられます。かかった費用は500万円。とても高額な費用にもかかわらず母親が支払ってくれたそうです。ご家族にとってのNさんの存在は、とても大きく偉大な存在だったのだと感じました。

がんに罹った後の人生からも、ご家族の絆はとても強く感じられます。

がんの治療で辛かったことは、手術の後、看護婦さんのミスで背中の麻酔が刺さっていなかったため、麻酔なしで痛みを乗り越えたそうです。手術後、すぐに歩くように指導があり(体にはその方がいいらしい)それも想像以上の痛みだったそうです。

そして、ひと月ほど仕事を休み、会社に復帰されました。

Nさんの働いていた会社は、あまりいい労働環境ではありませんでした。

日常生活の中で、会社の存在はとても大きく、理解のない会社だった為、Nさんはとても辛い思いをされました。

治療や検診に行くたび、経営者から嫌味を言われ、嫌がらせを受けたこと。

それでも会社を辞めなかった理由は「縁があったからかな」と、笑って答えたNさん。

がんに罹った事でその後の人生は「おまけの人生」と、人の為に生きようと強く思うようになったとのことです。

それから14年が経ち、今は仕事を辞めて、母親の介護をされています。

父親が残してくれた、父親との思い出がいっぱい詰まった『我が家』で、要介護3の母親の介護をしながら、弟と3人で生活をされています。『我が家』に対する想いが人一倍強くあるNさん。がんで亡くなった父親に対しての想いを話して頂きました。裸一貫で頑張って家族を守ってくれた父親が、Nさんにとって、とても偉大で大きな存在でした。

「もっと、もっと父親孝行したかったのに」「あれほど自分を愛してくれて、あれほど優しい人はいない」「父親が生きていた時は、苦労をした事がなかった。守ってもらっていたことが、その当時の自分は気づかなかった」「父親に親孝行ができなかった事が一番悔やまれる」と、父親にできなかった親孝行を、今、母親にたくさんの親孝行をされています。

母親を介護するNさんをみて・・弟のAさんは「母親はNさんがいて幸せな人だ」と言っているそうです。

なんでも頑張りすぎるNさんは、今は頑張りすぎないようにしていると、それでも毎日、母親の介護に家事等々・・日常の日々をとても頑張られています。今のストレス解消法は、月一回、母親がショートスティに行っている間に行く『昼呑み』だそうです。

どんな逆境にも立ち向かう強さと、自分の事より周りの人の為に尽くす優しさをもっているNさんは、自分とかかわった「人の縁」をとても大切にされる素敵な女性でした。

Nさんからは、たくさんの事を教わり、勇気を頂いています。

お話を聞かせて頂き、ありがとうございました。

66才女性

30代の時からいろんな病気で辛い思いをされてきたNさんのお話を聞かせていただきました。自分の人生、病気だらけの人生だったそうです。

2019年1月 口腔がん(舌がん)ステージⅣ 左リンパ転移と診断されました。

がんの告知を受けた時は、『手術はしないで緩和ケアを選択しよう。自分の人生は全うした』と、思ったそうです。

でも、子供たちの言葉がそんな考えを変えてくれました。

「生きなければ!」と、子供達の言葉で初めて思ったそうです。

舌の6割を切除する手術をされました。手術の後、「生かされた」ではなく「生きた」と思ったそうです。

「生かされてる」という言葉をよく耳にする事がありますが、私自身、ピンとこないのが正直な印象です。今回、「生きた」という表現はとても胸に突き刺さった言葉でした。そして、自分の生きていく意義を見つけたいと思ったそうです。

しかし、その後『自分は甘かった』と、思い知らされる日々が待っていました。

「どうして生きてしまったのだろう」と。

言葉を発することが出来ない事。

モノを食べることが出来ない事。

人は、話したり食べたりする事で、人生を愉しみ、ストレスを発散しているコトを痛感したそうです。

食べる事、話すことが出来ないだけでなく、【苦痛】となった時、想像以上の苦しみに、底なし沼にはまっていったとの事でした。

でも、そんな彼女には助けてくれる人がたくさんいました。

主治医、看護師、家族、ご主人に支えられて今の自分がいるとのことです。

遠くを見ると不安になるけど、今の自分を見ると沢山乗り越えた自分がいるから、足元には「経験」がある事、頑張った自分がいる。

「頑張ったね」と、自分をほめることが出来る今、人にも寄り添える自分がいるそうです。

保険に加入していたことで経済的にも精神的にも助けられたとの事ででした。

もし、私だったらどうしただろう・・・たくさんいろんなことを考えさせられました。

ありがとうございました。

55才女性

『凛とした女性』初めて会った当初から「あたたかい雰囲気」と「芯の強さ」を感じた方でした。

2003年義母の納骨の日、ご主人が階段から転落。救急搬送された病院で「後縦靭帯骨化症」と診断されました。それから「16年間ご主人の介護」を、経験されたNさんにお話しを聞かせていただきました。

Nさんは学生の時、170センチの長身を活かしバレーボールをされていました。高校卒業後、就職先の会社で自らバレーボール部を立ち上げ、選手兼任監督として活動を開始されます。

そんなNさんは、社内でも一目置かれる存在でした。

そんなNさんに、同じ会社の「身長182センチと体格のいいスポーツマン」とのお見合い話が舞い込んできました。同じスポーツ好きな事と、料理好きなNさんと、食べる事が大好きな男性(学生時相撲部☺)。そんなお二人は、出会ってすぐに結婚されます。その後、二人の女の子に恵まれ4人家族となられました。Nさんは結婚後、仕事を辞めパートをしながら子育てをされていました。

子供が社会人となり、子育てにひと段落ついた頃、事故が起きました。

今でも当時の事は、鮮明に覚えておられます。

救急搬送された先でたったひとり・・・

病院の待合室で4時間以上待たされた事。

その後、医師からご主人の病状の告知を受けた事。

そして、その日からNさんの人生は大きく変わりました。

ご主人は首から下は全く動かなくなり、病院を転々とする事となります。

当初、ご主人はリハビリすれば良くなると信じていたそうです。「その頃が一番辛かった」とNさん。すべてを受け入れる事が出来るまでの時間が、夫婦で一番つらかったとの事です。夫婦でどれだけの涙を流したことか・・・何度も何度も挫けた心を奮い立たせて今の自分がいるのだと。Nさんは性格上「人に弱音をはかない」そうです。

病院の対応、保険会社、身内からの心ない言葉。「理不尽な出来事」が次から次へとNさんに降りかかってきました。

それでも、どんな時も、気丈に対応し、そんな自分の人生の中でも、ご自身の出来ることを考え、行動に移す『行動力』は若い時から持っているNさんの持って生まれた個性(魅力)なのだと感じました。

平成16年秋頃、母から受け継いだ料理の腕前を活かし、小料理屋さんを始められました。奥まった場所にもかかわらず、地域の方に愛されたお店でしたが、ご自身の体調から「立ち仕事は無理だ」と、令和元年5月にお店を閉められました。

今はご自身の得意料理を、家族や自分と関わる人に「作りすぎた時におすそ分けしているの」と、笑顔で話していただきました。今の時代だからこそ、こういった『おすそ分け』=『人に感心を持つ事』=『本来の人との繋がり』=『深い愛情』なのかと改めて感じました。ありがとうございました。

Nさんが趣味でされている塗り絵です
74歳 Nさん女性

6年前、腎臓がんと診断されたTさんにお話を聞かせていただきました。

妻と子供2人の4人家族のTさんは、率直な人柄で、仕事はもちろん、家事や子育てにも協力的で、料理が得意(前職が料理人✨)でなんでもこなす理想的な父親&旦那様です。

会社では5年毎に「節目検診」が行われており、その申し込みをされたTさんでしたが、実は「一年」勘違いをされていました。無料の「節目検診」は『一年後』と言われたそうですが、『来年も受けたらいいや』と、病院嫌いのTさんが珍しく検診を受けたのが、今から六年前の46歳の時でした。

エコーの検査の時、右だけが妙に長く時間をかける事に違和感を覚えたTさん。

検査の結果、「右の腎臓に影」があるからと再検査をすすめられました。

普段から健康に自信のあったTさんですが、一抹の不安を抱えながら再検査を受けられました。

その結果、腎臓がんと診断されました。

医師から「家族の方は一緒ではないんですか」と言われた時、事の重大さに気づき「悪性の腫瘍」という言葉だけが脳裏に焼き付き、それ以外の説明は全く頭にはいってこなかったそうです。

頭の中は、家族のこと、両親のこと、仕事のこと、『そして自分は死ぬんだ』と大きな衝撃を受け、とても動揺していたそうです。

その後、改めて家族と一緒に医師から説明を聞き、インターネットやいろんな情報から冷静に現状を受け入れる事ができたそうです。腹腔鏡下手術で10日ほど入院し、ひと月ほど自宅療養し、仕事に復帰されました。

あの時、節目検診を「一年勘違い」したことが、癌を早期で発見できたことに繋がり今があるそうです。

当時、死を意識したことからTさんの意識が大きく変化したそうです。「自分の人生の余生は笑って過ごしたい」そんな風に強く思うようになり、以前の自分なら気になるような事が不思議と気にならなくなったとの事。退院してからは健康に対しての意識が強くなり、毎朝夕、歩くようになったそうです。更に食生活を野菜中心に改善し、炭水化物を減らしたことで、2年で9キロ痩せて身体が軽くなり、体調も良くなったそうです。三か月に一回の検診から、今では一年に一回の検診となり、先月の5月の検診も無事おわったそうです。腎臓がんは10年は検診が続くとの事。当時の看護師さんに「7年目で再発する人がこの病院で何人もいる」と言われたことがずっと頭の片隅に残っていて、7年目にあたる来年の検査が少し気になるそうです。医師や看護師さんの言葉はとても影響力が大きいのだと感じました。

以前、「私は主人がいなくなるとダメになる」と話していた奥様。

いろんな事があったけど、とても絆の深いご夫婦だと改めて感じるお二人でした。

2006年、保険の見直しの時「主人はがんの家系ではないから」と加入するのを迷われたがん保険。

「あの時、加入しておいてよかった」と言ってもらえた事が何よりです

52歳 Tさん男性

「しっかり頼れる介護保険」ご契約

4年前、74歳で亡くなった父親についてお話を聞かせていただきました。

広島県生まれのNさんは4人家族(父・母・妹)で大のプロ野球好き。

大学の時、広島の実家を出て数年後、妹も大阪へ出たため、実家は父と母、夫婦2人の生活でした。

田舎での二人の生活は、几帳面で真面目な父と、おおらかで料理好きな母二人で、大きな病気もなく近所の人達と仲良くのんびりとした生活を過ごされていました。

帰省した際、阪神ファンの父と巨人ファンのNさんで、テレビ観戦しながらお酒を飲み交わしていた父が元気な頃の話を、懐かしく聞かせていただきました。

2013年、(父68歳・母66歳)1年ほど前から父の様子が「少しおかしい」と母より連絡を受けていたNさん。

ある時、父が車を運転中に『ガードレールが近づいてきた』と言って車のボディを擦ったと母より連絡を受けた時、確実に何かおかしいと感じたNさん。

急いで帰省し、父を説得して車の運転をやめさせたそうです。また、この頃に父が紙パンツを常用していることも知りました。

年金生活となってから几帳面な父は、毎日の「散歩の出発・帰宅時間」を記録していました。

病院に行くきっかけとなった一つがその「散歩の記録」でした。同じコースにも関わらず、日に日に時間がかかるようになっていました。近所の方の話によると、散歩中につまづいてはこけるようになっていたそうです。

その後は認知症のような症状や尿失禁、歩行障害が顕著に見られるようになった為、Nさんは父を説得し病院へ検査に行きました。

「正常圧水頭症」と診断されました。

その後、2度の手術をされましたが、アルツハイマー型認知症の症状も併せて出てきたこともあり、病状は改善されませんでした。

認知症の症状は、日によっては大きく違い「病状が改善されたのか」と思える日が何度もあったそうです。

父を助手席に乗せて病院へ向かう途中、英語が得意な父に『英語の問題を出し、答える父を確認する事』で自分の中の不安な気持ちを紛らわせていたそうです。

ある時、父が「だんだん自分が馬鹿になってきよる」といった言葉が、今もずっと忘れられないとの事。

病気がわかってからNさんは月に一度、4~5時間かけて実家に戻る日々が続きました。

母の介護と近所の人の支えで、デイサービスを活用しながら4年が過ぎました。

父に対する母の介護は、体力的にも精神的にも、とても大変な様子でしたが、心折れることもなく献身的なものでした。

2018年に入ったころから急激に父の様子がおかしくなり「手に負えないから」とデイサービスを断られ、4月、精神科に入院が決まりました。

その半年後、誤嚥性肺炎で亡くなられました。

複雑な病状だったことから医師より『脳』の検体を提案され、悩みに悩んだ上で検体を大学病院に依頼した結果、し銀顆粒性認知症ステージ1の可能性が高いことが判明したそうです。

この病気にかかってからは、普段の生活費にプラス毎月7~8万円以上かかったそうです。夫婦の年金だけでは足りない分はNさんが出していたそうです。

こういった経験からアフラックの介護保険に興味をお持ちいただきご契約となりました。

 

51歳 Nさん男性

今回は成人脊柱変形症で手術をされたNさんからお話を聞かせていただきました。

8時間の手術、そして100日間入院され現在はリハビリで週に一回マッサージに通院されています。

コロナ禍の為、入院する際は車の中でPCR検査を受け、家族のお見舞いは一切できない状況でした。

手術を決断されたきっかけは長年悩まれていた「痛み」や歩く事の「苦痛」に対し、医師から「人生100年時代やで」と言われたことから『自分の人生』90歳までとしても残りあと10年以上もこの痛みと過ごすのかと考えた時、ずっと先延ばししていた「手術」をする事を決断されました。

術後の痛みがあるものの、それでも明るく前向きなNさんのお話は、聞いているときは気づかなかった事がいくつかありました。

「この動作ができないの」と当たり前にできる動作が、出来なくなる事がどれだけ大変な事なのかと・・・

きっとご本人とご家族の方しかわからない事がたくさんある事を。

大好きな植木鉢を人にあげたのと少し寂しそうにおっしゃっていた事。

冗談交じりにいろんなことを楽しくお話してくださるNさん。

「近いうちに卓球にチャレンジする!」と、看護師さんもびっくりするほどの回復の早いNさんでした。

80歳 女性


70歳をすぎてから何度も死にかける経験をしながらも、もうすぐ89歳を迎えられるOさんです。

2021年の4月にも肺炎で呼吸が苦しくなり、入院され医師から「ご主人は余命3ヶ月です」と告げられた奥様・・・

それから8カ月後の12月、回復されご夫婦でお話を聞かせていただきました。

7つの点滴と2度の手術。

今から16年前、末期の大腸がんと告知された時、奥様とご家族はとてもショックを受けられました。

ところが、当時のご本人は「末期がん」と医師に告知されても全く動じなかったそうです。

私の知るOさんは冷静で紳士で包容力のある方です。その奥様は物静かで気品が漂う雰囲気のある女性です。

がんと告知されて「動じない人なんていない」と思っていましたが、それを表面に出さなかったり、いろんな受け止め方がある事を改めて感じました。

その8日後、末期がんではない事が判明。医師からは「おめでとう。よかったね」と言われた直後、激しい嘔吐に襲われ、腸が癒着している事が判明しました。7つの点滴をしながらの治療と2度も手術をされました。

当時、あまりの痛さに「窓から飛び降りたい」と同じ部屋の人に嘆いていたそうです。その時同じ部屋だった人に「飛び降りても3階だから痛い思いをするだけだよ」と言われたことを懐かしく思い出しながらお話を聞かせていただきました。

体重は10kg減。

退院後もあまりの痛さに「痛み止め」を飲みすぎた為、喉を傷められました。みかんを食べた時、胸が焼き付くほど痛かったそうです。あまりに苦しかった為、口に指を入れてもどしたらチョコレート色のモノを吐いたそうです。翌朝、血を吐き気分が悪かった為、救急車をよばれました。病院へ運ばれ検査の結果、喉がただれていた時に無理やり吐いた事で粘膜が剝がれてしまったそうです。それをホッチキスのようなもので処置をしたとの事です。この処置が遅れれば命がなかったと医師に告げられました。体重も10キロ以上減ったそうです。

その後も家で意識を失う出来事があり、その時に助かったのは20歳のお孫さんが人口呼吸をしてくれたおかげで息を吹き返したそうです。(人口呼吸のやり方は学校で教わったそうです)

今一番うれしい出来事は「ひ孫が出来たんだよ」と、写真を見せていただきました。

「コロナ禍のせいもあり、まだ一度も会えてない」と、近いうちに会う日をとても楽しみにされています。

(取材/文・成松 久美恵)

 

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88歳 男性「生きるための保険」ご契約

子育ての真っ最中に、突然の告知。

小学1年生の男の子と夫の三人家族のKさんは当時47歳で独身の時から続けている仕事と家事を両立しながら40代で授かった我が子の「子育て」を楽しみながら、毎日忙しい日々を過ごされていました。

47歳の冬、会社の健康診断で乳がんの疑いがあるので専門医に行くことをすすめられ、乳腺外科で検査の結果、3センチ程の腫瘍は悪性の乳がんと告知されました。
ステージでいうとⅢ。5年生存率が50%と告知され「転移があれば助からない」その言葉が脳裏に焼き付いているとの事。丸一日かかった検査の結果、幸いにも転移は見つからなかったそうです。


乳がんの場合、最初に「乳房温存」か「乳房切除」かで「決断」をしなければなりません。
Kさんは会社の仲間の紹介で別の医療機関の意見を聞くことにし、セカンドオピニオンをされます。
最初の乳腺外科では「乳房温存治療を勧められていた事」に納得が出来なかった事が一番の理由だったそうです。
会社の人に紹介してもらった病院で乳房全摘し、同時に乳房再建術をされました。
現在はホルモン治療で3ヶ月に1回通院しながら、仕事と家事の両立、小学6年生になった男の子の習い事やPTAに多忙の日常を過ごされています。

いつも笑っていた自分。

会社の仲間の助けがなければ今の自分はいなかったのではないかとの事。

辛い抗がん剤治療にも会社の理解があったからこそ続けられた事。

がんの治療の為歯を抜いた事

抗がん剤治療の時ガリガリ君ばかり食べていた事

医師から「子供が小さいから頑張らないといけない」といわれた事。

子供の「おかあちゃん、死なんといて」と泣きながら言われた事。

夫の支え、家族の支えがあり辛い治療も乗り越えてこられた事。

そしていつも笑っていた事。

笑うことが「一番がんの治療にいい」と聞いたからと笑顔で答えてくださいました。

特約に救われた治療。

そして今回は抗がん剤治療特約を月10万円つけていたことがとても有難かったと言っていただけました。「この保険がなければ抗がん剤治療は選択しなかったと思う」と抗がん剤治療がとても高額だったとの事。

がん保険の必要性、そして改めて抗がん剤治療特約の重要性を伝えていきたいと感じました。

(取材/文・成松 久美恵)

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52歳 女性「生きるための保険」ご契約